
・・・・・・・・『 はぐれ狼が奔る 【俺が辞めたらいいんだろう】 』 (P9〜P11)より・・・
牧山春彦は突然会社を辞めた。
辞表を書いたわけじゃない。書きたくても辺りには手頃な用紙も筆も無かった。目の前のテーブルにあるのは、ウイスキーのボトルと水差し、いい加減な「おつまみ」の皿と幾つかのグラス。夜の蝶とは呼べない蛾に似た女たちと三人の中年男。
「ボクが辞めればいいんでしょう」。そう叫んだ春彦自身が、自分がいま何を言っているのかの意識が無かった。春彦の正面に座っていた野川の顔が歪んで見えた。同席していた宮崎と藤原からニヤケ面が消え、ポカ〜ンとした間抜け顔に変貌した。
嬌声を上げていた女たちが、時刻が止まったように黙りこくった。沈黙を破ったのは野川だった。予想もしなかった春彦の宣言に一瞬驚きのあまり我を失ったが、日本の大手商社の一角をしめる世紀物産の常務取締役の肩書を持つ自分が、今どう対処すべきなのか、その立場を思い出したようだった。
「なんてことを言い出すんだ。今の俺が会社と社員との板挟みでどれだけ苦しんでいるか、それを一番理解してくれるのが牧山、お前だと思えばこそ帰国を急がせた。繊維部門を統括する俺の片腕にとウイーンで活躍中のお前を、あえて指名したんだ。その俺の思いが分らんのか」
「わかりませんねぇ〜、それなら何故ここに、この二人が居るんですか。こいつらこそが会社を苦境に追い込んだ害虫でしょうが。この場が本当にボクの慰労のための席だとしたら、害虫二匹をなぜ呼んだんです」
女たちの眼前で害虫呼ばわりをされた宮崎が青ざめ、藤原の方は逆に顔を真っ赤に染めていきりたった。
「なんだとぅ〜、害虫とはなんて言い草だ」
「そのものズバリだろうが、お前がハンブルグで行った悪行の数々、ようも今日までクビにならずに済んだことだな。常務、こいつを駆除せよと言われるのならお受けしましょう。なんでこんな害虫どもが、今回の肩たたきから免れて、ただ五〇才を越えてラインから外れているという理由だけの理由で、七人もの先輩をボクが首切り浅右衛門の役を果たさねばならんのです。いつから世紀物産はそんな薄情な会社に成り下がったんですか。あの竹下の馬鹿が社長になってからとは知っています。野川さん、貴方までが竹下の言うなりになるとはねぇ〜。世紀物産ももう終りですなぁ〜。そんなに首切りせなあかんほど会社が傾いたんなら、ボクも余計なもんでしょうから、真っ先に辞めようじゃないですかと、そう言ってるだけじゃないですか。どこか可笑しいとこありますか」
ここは北新地の本通りじゃないにせよ、堂島上通りにあるクラブ「以志原」である。満席にはほど遠いにせよ、四組ほどのグループ客も入り、声のよく通る春彦の怒りにまかせたぶちまけを、他所のトラブルは蜜の味と言わんばかりに、興味深かげに耳をすましている。
・・・・・・・・『 はぐれ狼が奔る 【俺が辞めたらいいんだろう】 』 (P9〜P11)より・・・
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