
・・・・・・・・・「聖徳太子はホントに偉い人なの 」 (P300〜P302) より・・・
今でこそ日銀券の顔から消えたが、百円札も、千円札も、一万円札も最初に描かれたのは、こぞって聖徳太子だった。
そんなにエライ人だったのだろうか。それならカレの子孫は山背大兄王をはじめ、根こそぎに殺された事実は何を物語るのか。単なる蘇我氏の血を引く皇子の一人に過ぎず、御用済みとなって処置されたのが本当のところじゃなかったのか。
ホントにエライ人なのか、それが戦後の渡来人のボクには理解が出来ないのである。
聖徳太子が理想とし、天智天皇が下地を作り、大宝年間に藤原不比等によって完成する律令制だが、天皇を中心とする一部の貴族の下に、農地と農民のすべてを国有化すると言うのは、悪名高きロシアのツァーリ時代の農奴と、いったいどこに違いがあるんだろう。
農奴制を始めたヤツがエライってなぁ、オカシクはないか。
律令制という言葉をボク流に分析したら、規律と命令になる。お〜、嫌だ嫌だ。そんな世界なんかに住みたくはない。
苛斂誅求の世界から、多くの逃亡者が東国に逃れた。そこで新興の開拓民の手伝いをやり、おそらくは最初は水争いから始まった抗争から、鉄製の本格的な武器が生まれ、東国に武士団が登場する。
これを要するに、古代日本に「ブラック」を支配する「ホワイト」が制度化されたことになる。強烈な人種差別であり、この時の規律と命令の社会が、そのまんま徳川の官僚を作り、国の存亡を賭けた大本営参謀群を作り、いま、どうしようもない官僚王国を作るに至っている。
「和をもって尊しとなす」
そうかなぁ〜と思ってしまう。あれは天皇及び限られた貴族にとっては、都合の良い言葉であろう。「和」が産んだものこそが、今日の「談合」じゃないのか。
「和」なんかを尊重していた日には、社会の進歩はありえない。人間社会の進歩は、常に一部の先駆者が、「和を乱す者」と冷たい視線を受けながら、孤独な労苦の末に実現させてきたものではなかったのか。為政者は特に社会の進歩を嫌う。それは現代の会社にあっても、村落にあってもそうである。
「和」の反語は「争」かといえば、そうとも限らない。
「新」「脱」「開」「拓」「閃」「秀」「英」などを持ち合わせた、一見「異端児」に見える開明者が現われて、周辺の冷たい視線を浴びながらも、敢然と文明を押し進めてきた。
例えば人力で石臼を力ずくで回し、小麦粉を挽いていた時代に、水力エネルギーに目をつけて、水車を廻すチカラを活用して、楽に石臼を回すことを発明した者を、周辺特に長老どもが「楽をしたがるヤツ」と蔑んだことは、容易に想像が出来る。「和」を乱す者と大いに非難されたことであろう。
・・・・・・・・・「聖徳太子はホントに偉い人なの 」 (P300〜P302) より・・・
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